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八丁堀の牛タン居酒屋のオヤジのしょうもない68年間

2019/12/19

◆マスターの人生68年の歴史

八丁堀の牛タン居酒屋のおやじ、高橋浩一の68年間
のしょうもない歴史を時系列にさらします。

 

1953年 0歳 栃木県大田原市に生まれる

 

1959年 6歳 大田原小学校入学

 

初めての音楽の授業の時にドレミファソラシドって
なんのことだかわからなくて、ドレミ<バ>ソラシドっ
って、家に帰ってから歌っていたら、おばあちゃんが
それは間違いだと、正しく教えてくれました。

 

ドレミファソラシドを知らない子は(たぶん)自分だけ
だった事というがとても悲しかったことを覚えています。

 

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1964年 小学校6年 東京オリンピック開幕

 

貸切バスで国道4号線まで行き、聖火を応援しました。


1966年 中学2年 ビートルズ来日

 

TV放映がオヤジと爺さんが毎週、何よりも楽しみにして
いたプロレス中継とかぶってしまったので、子供ながらも
土下座をして「一生のお願いです~~!!」と、頼み込ん
で何とか見せてもらう事になったのですが、放映中TVの
横で爺さんが「なんだこいつらは~~!男のくせに髪の毛
を伸ばしやがって~~!!」と文句を言ってたので・・・、


実は見るのが苦痛で全然見た気がしませんでした(涙)。

 


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1968年 15歳 大田原高等学校入学


フォーククルセダースが好きで、フォークのバンドを
組んで、高校の人気者だったと自分では思ってるのに、
同級生の誰に聞いても覚えていないそうです(涙)。

 

1970年 17歳 大阪万博&京都・奈良へ修学旅行。
コンパニオンの女子と並んで記念写真を撮ることに
夢中でパビリオンを見た記憶が全くありません(笑)。

 

京都に行ったついでにフォーククルセダースの北山修
さんの実家の町医者を見に行ったら一緒に行った菊地君
が受付にいた北山修さんのお母さんに向かっていきなり
「修君、居ますか?」と聞いた事は恥ずかしかったです。

 

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1971年 18歳 明治大学商学部入学のため、
下北沢の4畳半のアパートで独り暮らしを始める。

 

大学に入ったらフォークのバンドを組むことを一番の
楽しみにしていたので、即フォークのサークルに入る。

 

後から知った事ですが、同じころ、山下達郎は部室を
のぞいてから、すぐにプイッと立ち去ったそうです(笑)。

 

和泉校舎での最初の1か月はすべての授業に出席していて、
それが当たり前だと思っていたのに、サークルの高木恭子
から「え~~っ!!高橋君って真っ面目~~!!」って
言われて・・、

 

「なんだ、大学の授業は高校とは違い、サボっても
いいのか~~」・・、と知ってしまってからの後の3年と
11か月はほとんどの授業をサボるようになってしまい、
3年以降の駿河台の校舎には行った事がないと言う事には
今でも後悔しています(笑)

 

それなのに卒業できた不思議な理由は次回で・・・。

 

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明治大学最初の1か月はすべての授業に出席したのに、
サボる事を覚えた大学2か月目以降のほとんどの授業を
サボったのに、4年で無事に卒業できたわけを説明します。

 

当時は学生運動が盛んな時代で、2年と4年の終わりには
ロックアウトで学校が封鎖していたので、レポート提出で
2年からの進学と4年の卒業が決まったので、授業に出た
記憶が全くないのに卒業だけはできたのです。
(今は亡き両親がそんな事を知ったら悲しむ事でしょう)

 

友達の西尾君のレポートを借りて、丸写しをしましたが
西尾君よりも私の方が字が上手だったので、西尾君が
<可>で私が<良>だったことには恨まれたけどコーヒー
を1回だけごちそうして許してもらいました(笑)。

 

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1971年 昭和46年 18歳


親父の叔父さんが下北沢に当時住んでいて、大学入試の
時に泊めてもらったりしてお世話になった関係で下北沢
の(ボロな)アパートを借りて5年間暮らしました。

 

下北沢一番街の銭湯の帰りに寄ったスナックマザーの
カウンターで隣に座っていたのは<太陽に吠えろ>で、
当時、売出し中の松田優作でした。

 

その横で一緒にサントリーホワイトの安いボトルを飲ん
でいた女性は美由紀夫人の前に結婚していた美智子さん
だと思われます。

 

私は松田優作と一緒にシモキタで飲んだことがあると、
自慢した事がありますが、半分は本当なのです。
(会話はしたことないですけどね・・・・(笑)。)

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1975年 22歳 明治大学卒業 就職
西武百貨店グループ ㈱エフ入社 婦人服部門に配属

 

自由が丘店に勤務、先輩のディスコ狂いの女子社員たちに
なじめなくて苦労する。

当時の有線放送は邦楽・洋楽・演歌くらいしかチャンネルが
なくて、BGMではいつも洋楽のディスコナンバーを女子
達がリクエストしているのが気に入らなくて、PINK
FLOYDの原子心母をリクエストしたら、余りにも
場に合わないので全員から大ヒンシュクを買いました。

 

今、考えると私の方が絶対に悪いと思います(笑)。

 

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1976年3月 23歳 入社1年で、岡山店に転勤 

 

1976年12月 23歳 福山店に転勤(3か月だけ)

三菱銀行外為勤務の彼女ができたが、あなたは私の運命
の人ではないと言われて、すぐに振られる。
(Official髭男dism - Pretender参照)

 

1977年 24歳 再び岡山店に戻る

 

岡山ではゴールデンカップスの人気者のマモルマヌーが
当時マスターをしているスナック・ケントがあり、私は
貧乏人の分際で常連ヅラして出入りしていました。

 

一度だけ、ゲストで柳ジョージとディブ平尾が来て、
カラオケでミニライブをやり、初めて目の前で歌を聴い
た柳ジョージには感動しました。

 

ディブ平尾には<愛しのジザベル>をリクエストしたら
<もうカップス時代の歌はやりません>と断られました。
 

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1978年 25歳 岡山で普通免許を取る。

 

店長が地方店にいる時でないと仕事中に教習所に通えない
と言うので、店長と交代で仕事を抜け出してアリエナイ
くらいに早い3週間で免許を取得しました。

 

その教習所には強力なコネがあって・・・、行きつけの
スナックのママさんの実家のお母さんのところに出入り
している魚屋の知り合いが教習所の教官をしていると
いうので紹介してもらったら優遇してくれました(笑)。

 

免許証が届く前に近くのかばん屋の社長から20万円で
スバルレオーネを譲り受けましたが、すぐに東京転勤辞令
が出て、免許1か月目に東京まで運転するのは恐怖でした。

 

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1978年 25歳 新宿店店長に大抜擢。

 

初めて店長をやるのに社内で売上トップクラスの店の
店長を任され、売れない新ブランドの導入とか余計な
ハンデを付けられて、好きなようにやらせてもらえず
成績は不振で苦労する。

 

なのに細かいことに文句ばかりを言う上司の江田和宏
を殴りそうになったが左手で右手を押さえて我慢した。

 

我ながら偉いと思いますが(笑)、もしも殴っていたら、
たぶん人生が全く変わっていたんでしょうね(笑)。

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1979年 26歳:上司の江田に無断でバックレて
石垣島に遊びに行って、真っ黒に日焼けして帰って
きたら千葉店の副店長として、大幅な格下げになる。

 

ストレスをあまり感じた事のない私の人生でたぶん
一番ストレスがたまった時代だったんだと思います。

 

売上大型店の店長の後に中型店の副店長になると、
プレッシャーが無くなり居心地が良くて遊びまくる。

 

1980年 27歳 半年後に津田沼パルコ店で店長
に復活する・・・・・・・・・フンッ!つまんない。

 

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1983年 30歳 津田沼パルコで近所の店の女子と
適当に遊んだ後に、かばん屋のアルバイトの女子とだけ
は真面目にお付き合いして、最初の結婚をする。
(あ、今のカミさんです。言ってみたかっただけ(笑))

 

1984年 31歳 長女生まれる

 

1985年 32歳 新店・宇都宮店の店長になる。

 

ams宇都宮という新しいファッションビルのオープニング
セールで安売りを控えたので開店直後のランキングで
トップ20にも入らず、上司に怒られるが・・・、


<バーゲンハンターに受けてもしょうがないでしょ!!>
と言ってやったかどうかは覚えていない・・・・・(笑)。

 

でも半年後には売上一番店を争うレベルになる・・・
フン、ちょろいもんだわ・・・・。

 

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1986年 33歳 3月、バイヤーになり本社勤務。
船橋市習志野台4丁目のテラスハウスに3人で住む。

 

1986年 33歳 12月、次女誕生

 

1987年 34歳 商品部の長谷川部長に誘われて
接待ゴルフを受けるためにゴルフを始める。

 

バイヤーは取引先から接待されてタダでゴルフをする
ことができるので楽しい!!という事を覚える(笑)。

 

1988年 ゴルフ1年目だけど大原御宿で初めての
100切りをする・・・95点・・・どや!!。
(最近のスコアと変わらない・・・って、なんだかな)
 

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1990年 37歳 札幌パルコ店の店長になる。

 

半年は売上不振で苦戦するが、すぐにコツをつかんで

売上絶好調になり後半の1年半は余裕で遊びまくる。

 

・・とは言ってもすすきのには行かず、夏はゴルフ、

 冬はスキーをやりまくり、どちらもここで上達する。

 

 

札幌転勤が決まった時のカミさんとの電話での会話は

今でも忘れられません(笑)。

 

私<転勤が決まったよ>

 

妻<やだ~~~!・・・・、、、、、でもどこ?>

 

私<札幌!>

 

妻<行く~~~~~~~っ!!>

 

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札幌赴任時代の2年間、パジェロを買って冬の休みは
すべてスキーに行った事は一生の思い出です。


一番の自慢は1日に3回、スキー場に行った事です。


朝、小1と幼稚園年少の娘を送り出して夫婦でスキー。

 

11時30分、スキー板を雪山に刺して昼前に帰宅。

 

娘二人が帰るのを待って、昼飯後4人でスキー場へ。

 

日が暮れると一度家に帰り、皆で晩飯を食べてから
ナイタースキーに行く。
(琴似からばんけいスキー場までは車で15分。)

 

さらに2年目はばんけいスキー場のシーズンリフト券
(約5万円)を妻子の3人分を買わされて、カミさん
は毎日スキーにゆき、その上、スクールに入って指導
を受けたので私よりも上達してしまいました。

 

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引き続き、札幌時代の思い出です・・・・。

 

娘2人は幼いころからスキーをやらせていたので
ほとんどの急な斜面でも降りられるし、同級生の中
でも比較的上手な方だったので、大きくなってから
きっと喜ばれるだろうな~と楽しみにしていたのに、

 

高校生になったころ、娘に言われたことは・・・・、

 

<なんで、スノボーじゃなかったのよ~~怒!>

 

です・・・って(涙)。


だって、当時は不良のスノボ、良い子のスキーだった
のです(最近はどうなのかはわかりませんが・・)。

 

・・・あのスノボ選手の国母君を見てください・、

人は見かけ通りでしょ・・・・、(笑)。

 

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1992年 39歳 札幌から宇都宮に転勤

 

友だちには<暖かいところに帰って来れて良かったね>
と言われ・・・・・・、激怒する。

 

札幌のマンションは真冬に2日間、家を空けて帰ったら
室内の温度が18℃・・・、寒いねと言ってストーブを
つけると10分で25℃まで温まる。

 

宇都宮のマンションは真冬に一人で部屋に帰ったら室温
3℃、石油ストーブを付けても温まらないし、布団で
寝ていても布団の下から冷気が入って寒くて寝られない。

 

建物の作りが床も窓も全然違うので北海道の家の方が
圧倒的に暖かいのであります。
 

 

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札幌から宇都宮に引っ越しての不幸な出来事・・その2

 

札幌に住んでいた頃は東に美味しいラーメン屋があると
聞けば愛車パジェロで家族で出かけて澄川の純連に
行って味噌ラーメンを堪能し、月寒に美味しいジンギス
カン屋と聞けばツキサップのジンギスカンクラブに出か
けてたりして食べることを楽しんでいました。

 

そして宇都宮に来て地元の社員に聞いた美味しいラー
メン屋に行ったのですが、娘二人は一口食べた瞬間に

 

「残しても良い??」ですって・・・・。ガーン!!

 

札幌以外ではラーメンを食べられない子に育ててしま
ったのか~~!!と青ざめたのですが、慣れたら普通に
食べられるようになったので安心しました。

 

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1992年 39歳 2度目の宇都宮での勤務。

 

自分が立ち上げて、馬鹿な後輩どもが売れなくした
店を立て直すのはめんどくさいけど、他に行きたい
店がなかったので引き受けた。

 

 1993年 40歳 本部の経営管理課長に誘われ、
現場に飽きていたので自分の意志で転勤する。

 

・・・・が、経営管理課の仕事が自分には
向いていなかったことをやってみて初めて気づく。


でも・・・・・、

この時代に覚えたEXCELが今でも役に立ってます。
(わすけのメニューもPOPもすべてEXCELです)

 

ワープロソフトはなぜかWORDではなく「書院」
だったのでWORDは使えませんがもう良いです。
 

 

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1995年 42歳 本業の専門店が絶不調のため、

経営が成り立たなくなり、当時は同じセゾングループ
だった良品計画の協力を得て、新宿伊勢丹の隣のメンズ
ショップ=3フロアのマルセル新宿本店を全面改装して
無印良品の大型店(当時は)に業態変更することになり、

 

経営管理課でつまらなそうに仕事をしていた私に・・、


 社長「高橋、お前が現場の責任者をやるか?」


 私「私が最適任だと思います!」ってな事で新規事業で
無印良品のフランチャイジーの館長をやることになり、


やる気復活!!

 

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他の紳士服と婦人服部門は全部赤字だったけど私の
部門の利益だけで会社全体の経常利益が黒字になった
ので毎日、社長に昼飯をごちそうしてもらえる日々、

 

しかしそんな幸せは4年間しか続かず、5年目からは
無印良品本体がユニクロやダイソー、ニトリの勢いに
押されて苦戦する時期になり、後半の4年間は会議の
度にまるで針のむしろ状態。

 

「お前は過去の成功体験から抜け出ていない!!」

 

とか言われて毎週の会議で社長からいじめられる日々。

 

だって、無印良品全体が苦戦している中で、フランチャ
イジーのわが社だけが好調になるわけないだろ。ば~か!
 

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もう我慢できない、こんな会社をやめてやる・・、と
思っていた矢先、親会社の西武百貨店が西洋環境の事業
失敗などによる大リストラの影響で不採算子会社もつい
でに清算になり、50歳にして初めての失業を経験する。 

 

●●●コーポレート銀行他に2300億円の債務免除っ
て、未だに意味不明です、私も免除してほしい。
 

そこからは以前に書いた通り、2003年6月1日に
わすけのオーナーになり、苦戦しつつも現状に至ります。

 

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無印良品のフランチャイジーの責任者になった1995年
の初夏、今につながる面白い体験をしたという話です。

 

フランチャイジーの店長と直営店の店長と良品計画の
副社長以下の幹部を含めた約50人で視察を兼ねて新潟県
津南町の無印のキャンプ場に1泊で泊まりに行く事になり、
私も招待されて一緒に参加させていただきました。

 

晩御飯はキャンプの定番のバーベキュー。

 

肉を焼いてお酒を飲んでの楽しいパーティだったのですが、
ゲストの私がなぜか炭火焼のコーナーを仕切っていて、
ひたすら肉を炭火で焼いて直営店の店長や幹部達に配って、
皆さんに喜ばれていた、というのは不思議です(笑)。

 

わすけを始めたのはそこから8年後の事ですから・・。

先天的なバーベキューおじさんだったのでしょうか(笑)。
 

**********おわり